卵の中身と僕
卵を最初に割った人は何を考えていたんだろう。中身を見て何を思ったのだろう。
何も考えていなかったかもしれない。否、そうであるに違いないと思う。壊すことは、命を奪うことはあまりにありふれて簡単だ。
子供が虫の足を引きちぎる、アリの巣へ砂や水を流し込む、公園の植木の葉を何の気なしにぷちりと1枚摘み取る。……だとか。本当に、簡単。
パンを食べるためにプラスチックの袋の端をぴりりと開ける。
ぼんやりと突っ立って片足の踵に、靴に、その下の地面に強く力をかける。
眠たくなってグジグジと目をこする。
───────それは果たして命を奪うことには、壊すことにはなり得ないのだろうかと、少し考える時がある。
繋がっていたプラスチックの小さなつぶはその時確かに引き剥がされて、体を柔く支えていた踵の体細胞、靴の、地面の小さな小さな粒はきっと確かにぺちりとすり減り潰されて、目元の体細胞や漂い体を纏っていた眠気を含んだ柔い空気の粒は確かにぱちんと弾かれて。
目に見えない、気付けない小さな小さな世界でそうやって僕達が一日一日を過ごしているうちに沢山の離別や破壊が悪気の無い当然の行為に内包されている。
きっとそれと同じように、卵の中身は潰されて、小さな命は途絶えたのだろうと思う。
多分恐らく、卵の中身と僕に大きな違いはないのだと思う。大きな殻に護られて安全な所でぬくぬくと育つ。けれど殻の外は実は危険に溢れていて、ふとした時、ふとした拍子に殻は壊されて外に放り投げられ、運が悪ければ、と言うより殆どの場合そのまま死んでいく。
僕らがこうして生まれて、育つ過程で緩やかに腐って死んでいくのは、卵が子供のいたずらで壊されるように、僕らが眠くて目を擦るように、無作為に気まぐれに適当に、当然のことなんだと思う。